ボランピオ

2019年08月号

【特集_前編】「今、そこにあるということ」多田伸志さんと山下弘彦さん

2019年08月23日 16:50 by youi_center
地域で暮らしていくなかで、自分が抱える悩みや課題をかくして生きるのはしんどい。では、暮らしの中で「生きやすい」とは、どういうときに感じるんだろうか。町の中の「安心感」とはどうやってつくられるのだろうか。
今回の特集では、日野ボランティア・ネットワーク(鳥取県日野町)の山下弘彦さんに聞き手となってもらい、NPO法人マインドこころ(岡山県倉敷市真備町)の多田伸志さんとの対談をお願いした。「地域共生」なんて言葉は一つも出てこないけど、このインタビューには、僕らが地域で共に、そして、「ありのままに」生きていくためのヒントがある。
テキスト・編集:西村洋己 (ゆうあいセンター副センター長) 
撮影:かなみつ こうたろう(ゆうあいセンターボランティア) 取材場所:Studio Lights   

山下ちょっと今日緊張してまして。災害のテーマならやりやすいんですけど、まあ、ある意味で本意なんですけども、僕も災害の人ではないと自分では思っているので、わりとなんでもありな話なので、果たして多田さんの対談相手として、どれくらいお聞きができるか。

多田:すごくそういう意味で偏った人間ですから、人生、生まれもすべて偏っているので、偏ったことしか分からんのです、広く問われても答えられないし、分からないことは分からないと言いますので、よろしくお願いします。

山下:実は僕も、どんなことを核に話しようかなと思っていますが、極めて偏っているので、ある意味で偏ったもの同士で、どう重なるのか、融合するのかわかりませんけど、宜しくお願いします。まず最初に、今、現在に至るまでのお話を教えてもらえますか?偏りっぱなしと言われていました、今現在に至るまでの話を話しやすい形でよいので、どういう思いで、あるいは成り行きでマインド「こころ」にどう行き着いたかを教えてください。

多田:あの、マインドの話?災害の話?僕の話? 

山下:いえ、多田さんの話 会場笑

多田:あ、僕の話、まあ、どこから言えばいいかな。僕は、広島県尾道の生まれなんです。僕は父親が高校の教員じゃったんですけど、これが何と言いますか、解放教育なんかにずっと関わっていたりするような「悪い」教員で。その、あの当時ですから、60年代を学生をやって、まあ70年代、あの頃の時代に学校の先生しながら、部落解放運動、因島闘争で学校、公教育とやりあっていたような親父がおりまして。この親父、僕が小さい頃は全く何をやっているか分からなかったんですが、何かしらんけど、とりあえず僕の周りには居候みたいな人がいっぱいおって、勝手に冷蔵庫を開けて飯食っているような、そういう居候のお兄さんがいっぱいいる環境で育ったんですけど。そういう世界で、親父がいいことをしているんじゃないかと勝手に思ってたんです。

まあ、そういうところからずっと生きていて、ここから話をしているときりがない。あの、ビール飲まれません?笑 僕は、大学は水産学部だったんですけど、3年生を3回したので、大学には6年間通いました。学生時代はずっと、バイクのって、音楽して、アルバイトして、遊びよったんですけど、そんな学生時代から、なぜかしら精神医療の現場へ行っちゃうんですけど。僕の周りにいた、そういう人たちのご縁の中で、まきび病院という所に一色先生という「変」な精神科医の先生がいるという話が聞こえてきて。

多田 伸志(ただ しんじ)

1960年生まれ。広島県出身 長崎大学水産学部卒業後、真備町にあるまきび病院に相談員として勤務。2002年3月、心の「病」を抱えた当事者・家族の方々が安心して生活できる支援体制とやさしい地域づくりを目的に、仲間たちと「NPO法人マインドこころ」を設立。2011年、グループホームと地ビール醸造所・ビアホールを立ち上げ。平成30年7月豪雨災害では、施設が被災。その後、復旧した施設をボランティアセンターとして開放し、支援を始める。被災したまちへの支援金を集めるために、真備町復興プロジェクト「一緒にやろう!」の立ち上げ。真備地域の医療・福祉団体で構成する「真備地区関係機関・事業所等連絡会」(真備連絡会)の一員として、同年11月には、連絡会が運営する復興を支援する拠点「お互いさまセンターまび」をオープン。電話相談、町内の移動支援、生活支援や真備公民館駐車場での住民交流会などを行っている。

 

山下:それは、お父さんの影響みたいなものってありましたか?

多田:あったんでしょうね。多分ね、ひどい親父だったけど、やっぱりかっこええと思っていましたから。まあ、追っかけたんかなと、今から思えばそうですけど。で、まあ一色先生のところへ押しかけて行って、最初は「役にたたんから修行してこい」と言われて、2年間地方の魚市場でマグロ解体の仕事をして、それからもう一回押しかけて拾うてもらうんですけど。

そこからまきび病院という精神医療の現場へ、何も知らんで飛び込んで入れてもらうんです。だから僕は医療とか福祉を学んできた人間では全くないので、「お前は何ができるんか」と言われて、「僕は遊ぶことしかできません」と言ったら、「ならお前は若い人たちと一緒に遊ぶことがお前の役割や」と言っていただいて。その当時のまきび病院はまだ今より元気がありましたから。鍵をかけない精神病院として、やり続けてこられる中で、まあ、好きなことをやらせていただいてきたという感じです。

山下:ある意味たまたまの畑のところにはいってきて、それと多田さんと好きなことの接点は何だったんですかね?

多田:その当時は、やっぱり、親父とか、一色先生とか、いうような人たちが こう何かを変えようとしているというものに自分もこうシンパシーを感じて、追いかけていたんだと思います。

山下:そういうところで、やりたいことがやれる環境にあった?

多田: その頃のまきび病院はそうでしたね。一色先生がお元気な頃は、本当にこう懐が大きいというか、「とにかく既存の精神医療のあり方を壊せ」と、「お前らが新しいものをつくれ」と、「どんどん外へ出て、精神医療じゃやれんようなことをどんどんつくれ。その代わり本気でやれ。失敗したときは責任をとってやる」。こう言って下さってましたから、僕らも何かするときは、本気で遊んでましたんで、そういういい時代を経験しました。

 

山下 弘彦(やました ひろひこ)

1966年生まれ。鹿児島県出身 筑波大学人間学類卒業後、福武書店(現在ベネッセコーポレーション)東京支社に勤務。「歩かなきゃ」と思い立って10年少々で退職し、日本全国歩きを中心とした旅へ。道々で多くの方と出会い、各地の「そこにある暮らし」、光を観た。旅の途上で2000年10月に発生した鳥取県西部地震に遭遇。日野町で初めて災害ボランティア活動をし、日野ボランティア・ネットワークに結成から参画。結果、日野町に住み着き、被災後の地域づくり活動を継続しながら、県内外で地域・福祉・防減災の取り組み支援などを行っている。大規模災害時には、被災地支援活動に取り組み、平成30年7月豪雨災害では、岡山県域の支援に関わり続けている。

マインド「こころ」について

山下:病院には何年くらい?

多田:マインドをやりだして、グループホームや地ビールをやりだしたのが2011年、ですから、その年にやめたんで、23年くらいですか、お世話になりました。

山下:岡山マインド「こころ」をはじめたのとは、重なっているんですね。

多田:はい、岡山マインド「こころ」をはじめたのは、2004年ですから、まきびに勤めながら始めたんです。地ビール醸造販売とグループホーム事業をやりだしてから、首が回らなくなって、「すみません、お暇させてください」って、わがままを言うたんです。

山下:マインド「こころ」をはじめたころはいかがですか? 

多田:マインド「こころ」を始めたときはねえ、病院の中で出会うた人たちと一緒に、「外へ出ようや」とNPOをつくるんですけど。ちょうど、総社市にあった県の保健所が閉鎖になるというような時期で、その保健所の建物を使って、地域生活支援センターをつくろうやというような話を、こう、家族のみなさんともしよるなかで、そこでマインドの原型になるものができてくるんです。地域の中で支え合う、そういうものをつくろうということで法人化してやりだしたのが岡山マインド「こころ」でした。ずっと自分らでトンカントンカン、岡山市からプレハブ小屋をもらって、岡山市からみんなで解体して持ってきて、真備でまた建ててということから始めるんですけど。

山下:そのころの仲間はどういう方々ですか?

多田:まあ、「精神障害」と言われる仲間です。僕らの法人は、そういう人たちが、正会員の3分の2が当事者ですから。彼らとは、それこそ「まきび学習会」、これ言い出すとまた長いな、でも言いますね。広島県で、僕の親父が悪いことをしよった学校があるんです。それが広島県立東高等学校という通信制の高校で。ここの先生たちとまきび病院が県境をこえて、今から思えばあり得ないような実践をしていった時期があります。一色先生が県を超えてこの高校の校医として迎えられ、この通信制の学校の中で、「精神障害者の教育権の保障」ということをテーマにして、当時の不登校や「精神障害」の人たち、そういう生徒さんをなんぼでも受け入れていく。まきび病院に入院している若い居場所のない生徒さんたちも、全部入学させてくれる。所属を得るんですね。

東高校は通信制の高校ですから、本校スクーリング以外に広島県東部圏域に地域学習会を持っていました。先生たちが出かけて行って学習会を開くんですね。そして被差別部落の中にも多くの学習会を持っていました。学習会で先生たちが暮らしの中まで入って行く。そこの中にやっぱり不登校から、家族の中に色々な精神的な「病」を抱えている暮らしがたくさんあるわけやないですか、そういったところに関わっていた先生たちが、生徒さんやその家族の人を一色先生のところへ「診てください」って連れてこられていた。以前からそういう付き合いがあったんです。

先生たちが暮らしを一生懸命支えようとするけど、どうしてもだめな時は「よろしくお願いします」とまきび病院の扉をたたく。その人が危機をやり過ごされたら、「よろしくお願いします」と暮らしに戻られる。そういう、公教育と精神医療が、どちらも自らを壊したいもの同士が一緒に仕事をしていた時期がありまして。それもあって僕はまきび病院へお願いに行くんですけど。 

話を戻すと、岡山マインド「こころ」というのは、その当時にその通信制高校と、まきび病院の中で一緒にやってた若い人たちと僕は一緒に遊びよったわけです。そこで出会った仲間たちと一緒に、「病院を出よう」。で、法人をつくって出る、それもマインドの最初の成り立ちじゃったりします。

山下:最初のころは、どういうことをされていたんですか?  

多田: うーん、何もしよらんかったですなあ(笑)。その掘っ立て小屋へ毎週日曜日にこもっては、タバコを吸ってプカプカやって、ゴロゴロやって。

山下:みんなで集まる拠点というか。

多田:はい、僕らはサティアンと呼んでいましたが(笑)。「変」な奴らが集まっとるという、そういう場所へ、日曜日にはそこへみんなが集まるという感じで。まあ色々なこともありましたけどね。近所にいい家がでたから、グループホームをつくろうとか。僕らはやっぱり暮らしの場が作りたかったから、グループホームをやろうとするんですけど。地域の中で説明会をやったら反対運動がおこりましてね。ダメになったりとか。そんなこともありながらやってたけど、やっぱりこうね、でもまちの人たちにキチンと顔を見せていかないといけんなと思ったのは、それがきっかけですね。

山下:そういう説明会での抵抗があったりとか、そういう場をかさねていくうちに。

多田:そう、僕らは、「病」の彼らのことを知ってるから怖いとか思わないし、ましてやグループホームを創るって、自分たちは「ええことをしよる」と勝手に思っていたけど、地域の人からすると、全然顔も見せていなかったから、「おっとろしい奴らがここに集まってる」という風に見えるやないですか。だからこれをどうやって知ってもらうか、知ってもらわないと何も進まんなあと、そこで初めて気づくんですよ。社会復帰してないのは自分で、自分は正しいことをやっていると思ってたけど全然そうじゃない。そこから、僕らは隠さずに外へ出るということを始めるんです。反対運動からですね。

山下:具体的にはどんなことをはじめるんですか?

多田:毎年溝そうじをしていました。地域の人たちと一緒に農業用水路の泥を上げるんです。自分たちの施設の前の溝だけでなく一番しんどい場所に行って。花壇の植え替えを環境委員の人たちと一緒にしたり、地域のイベントにできるだけ出ていく、そういうことをずっとやり始めるんです。少しずつ。あと、在日2世のシンガーソングライターの新井英一さんを呼んでコンサートをしたり、映画の上映会を企画したりとか、中学校の吹奏楽部と音楽コラボのイベントをやったり、そういうことを少しずつやり始めて、「『変ちくりん』な僕らを見てください」とずっとやってきて、8年半前、2011年の5月に、今の地ビール醸造所とグループホームを引っ付けてつくるんです。そうしたら反対運動は起こりませんでした。

山下:すごく感じていたのが、真備の中で関わる色々な人から「多田さん」という人がいるという話を聞いていて、多田さんが、地域の中で存在感があるようになっていたのは、どういうことなのかなとすごく興味があったんですけど、今のお話みたいなことをずっと続けて来られたというのが大きいことなんですかね。

多田: はい、よそ者でしたから。まきび病院へ就職して真備へ入ってきたよそ者の青二才が。まあ病院で仕事しながら、突然、家の近くに掘っ立て小屋を建てるわけやないですか。近所の人からすると怪しい局地ですよね(笑)。当時、躁状態で元気いっぱいの若者が「多田さん、ここの壁にみんなで絵を書いていいか?」とか言って、白いプレハブにね。「ええ、好きにしてくれ」と言って僕は仕事へ行くんですが。夜帰ってきて、車のヘッドライトにそのプレハブが映った瞬間に「あ、やられた!」。すごいことになっていて、アートになってるわけですよ(笑)。そうしたら近所のおばさんが「多田さんとこ、すごい落書きをされとったで!」と言いに来てくれるわけです。よく聞いていくと、彼は近くの障害者作業所へ行って、そこの通所者の人たちに「絵を描こう」って、呼び出して、みんなでキャッキャ描いてたって、あとで聞く。そういう、かわいいことがいっぱい積み重りながらですけど、まあ、面白かったですね。 

山下:そういう面白いと思えることをずっと地域でされてきたのが、今に至る感じでつながってきたんでしょうかね。

多田:どうなんでしょうねえ。でも大失敗もいっぱいしてる。失敗の連続でしたから。まきび病院にいたときも、ずっといっぱい失敗してきたということしかないんですけど。まあ失敗させてくれるところじゃったので。だからとてもありがたかった。そこが僕をそして僕のまわりの関係性を育ててくれたんだと思うんですよ。それをちょっとでも恩返ししたいし、繋ぎたいし、マインドはまきび病院のおひざもとにありますから、地域の中からやっぱりこう、少しでもまきび病院の応援ができんかという事もあって外へ出ましたから。そこを守るために何ができるんだろうか、それも始まりのひとつだったかなと。 

よそものだからできたこと

山下:今、多田さんと話をしたり、書かれている、話されていることをみても、真備への愛情というか、そういうものを感じるんですけど、やっぱりそれは、一つは「よそもの」というところとの接点の作り方から出て来るものがあるんでしょうか  

多田:かもしれません、分かりませんけど。こんなバカなことは、地元の人は簡単にはできないと思うんです。色々なしがらみがあるから。僕は何のしがらみも無かったから、楽じゃったと思いますね。 

山下:それは今の立場でもそうですか?もう真備に住まれて長いと思うんですけど 

多田:昔ながらのその地縁とか、こう、地域の中にいろんな強い弱いの構造があるやないですか。僕はその中に、よう入らなかったんですよ。だからずっと、隅に一人でしたから、それがこう、今は良かったのかなと思うんですけど。あの、今は、助けていただけるような立場に、みなさんがしてくださったというか。「あいつ嫌いだから行かない」とか、僕はそういうところに全然入らないようにした。地域のみなさんとは、「すみません、すみません」と笑顔で言いながらずっとやってきたというのが、ひとつ今、真備の中にいて僕は楽ですね。 

山下:実は僕もちょっと似たような感じで、少しだけ僕のことを話をさせていただくと、僕は完全に鳥取はよそ者で、出身は鹿児島で。旅をしている途中で、鳥取県西部地震に遭って、色々あって今に至るんですが、自分でも地域のつながりがと言ったりするんですけど、それはすごく大事だと思う一方で、けどそこにそのどっぷり入り込んでしまって、なんていうんですかね、しがらみだったりとか、上下関係、色々な人間関係のかたまりみたいなものに入り込んでしまうと、なかなか動きにくくなる。ちょっと自分でも、ある意味では、なんていうんだろうなあ、入り込まないようにというか。自分でもそう意識しているところがあって、なんか身動きがとれなくなるような気がするんですよね。

多田:何かね、「よそ者」って楽やないですか。すごく。あの、真備町ってそれを受け入れてくれやすい土地でもあったんだなと思うんです。それは、まあ、まきび病院という、24時間全開放の精神病院を、まあ、嫌々ながらでも受け入れて、それなりに見守ってきて下さった地域でしたから、そういう意味では、地元のみなさんがそれを一つの風景のように、「仕方ないなあ」と思いながらも感じてくださっていたのかなと、許してくださっていた人たちがおられたんだと。そんなまちだったので、僕ら岡山マインド「こころ」が地域に入ってもそれをそのまま受け入れてくださったところもあるんかなあと思います。

山下:あまり偉そうに言わないように気を付けているんですけど 時には、そういう状態のものが近くにあったりということは、どこかで安心材料だったりとか、「ああ、そういう風にやってもいいんだ」と思えるところもあるんじゃないかなと思うけど、どうでしょうか。

多田:そうですね、あの、うーん、「変」な人と仲良うなりますね。まちの中でもね、最初にビールを飲みに来てくれるお客さんたちというのは、やっぱりこうね。みんな店でビールついでいるのも当事者の人ですし、配達しているのも当事者の人ですし、そんな地ビール醸造所へ来て、そこでだんだん僕らを可愛がってくれて。そのうちに気が付いたら昔、反対運動していた人たちがだんだんお店にきてくれるようになったんです。そういうのは、とても嬉しかったですね。そういう意味では、あまり「変」な人ばかりが集まっとるんではなくて、土地のみなさんが割と、よう可愛がってくれるようにだんだんなってきたんですけど、何でなんだろうね?うーん(少し沈黙)まあ、ニコニコしながら、「何でもやります」って言うてから、汚れ仕事も一緒にしよったんで、そんなところが一番、「まあ、変ちくりんな奴らだけど悪い奴らじゃねえなあ」という感じは少しずつ思っていただけたのかなと思いますけど。

山下:日野の町内にも、「セルプひの」という事業所があるんですけど。日野町でやっている高齢者の訪問活動にボランティアとして関わってもらったり、町内の清掃活動、そこがやっているうどん屋さんによく食べに行くとか、関わっている接点がたくさんあって。さっき、多田さんおっしゃられたように、とにかく、出ていくってことをされているのでお互いに安心な感じが広がっていく気がするんです。

多田:やっぱり、知ってもらってなんぼやと思うんですね。それは、調子の悪いときも含めてなんですけど。僕ら、2年半くらい前に自殺者を出しました。グループホームになっているアパートの一室で、自分をカッターで傷をつけた、亡くなった若者が一人いたんですけど。そのとき、まちの幹線道路沿いのアパートに警察車両が10台以上来て、規制線をはって大騒ぎじゃったんですけど。そのとき僕は、あのときはもう、自分では分かってないけど、「多田さん、真っ青で立ってたよ」とみなさんおっしゃってたんですけど。そんなことがあっても、アパートの大家さんや近所の人たちが「多田さん、大変やったな」と言ってくださるんですよ。それは、とても有難かった、救われました。簡単に言ってはならないのですが。色々な気持ちがね、もちろんあられる方もおられると思うんですけど。そう言ってくださった方々がおられたということは、マインドのみんなで、今まで、みんなでつくってきたものの貯金があったのかなという気がしていて。

まあ、そういう話も含めて、どっかで下半身裸で寝転がってたとか、どこかの家に勝手に上がりこんで味噌汁飲んでたとか、色んなことはある意味、日常茶飯事でもあるわけやないですか。それを含めて、「あれ、多田さんのところやな」って地元の人たちが見てくださったり。それこそコンビニの若い店長さんとかね。あるとき、金髪で墨を入れた兄ちゃんが、店の中を缶ビール飲みながら、グルグル回るということがあって、お店の方はちょっと困るわけやないですか。で、「あれ、もしかしたら、多田さんところの人やないん」みたいな話になったんでしょうかね、分からないんですが。マインドの当事者のみなさんも、みんなコンビニに買い物に行くから、そのある人に、「こういう人がおるんじゃけど、あの人、どうしてあげたらいい?」って店長さんがうちのメンバーさんに聞いてくれるんですよ。そのメンバーさんがね、またやさしくてね、彼のところに行って、店の外で座り込んで話を聞いてくれて、実はマインドのグループホームで一週間預かっていた若者じゃったんです。まあ結局、僕は「すみませんでした、迷惑かけました」ってお詫びしに行くんですが、その若い店長さんが、「いいえ、こういうのってお互いさまですから」と言ってくれるんですよ。

まあ、そういうコンビニの店長さんがいるまち。それをみんなでつくっていってるんですよね。あれが、僕が真備町が大好きな一つですね、みんなで、こう隠さんでね。

山下:やっぱりそれは、でも、多田さんとか、マインドだけかはわかりませんけど、隠してれば隠しているほど、どんどんこう相手を遠ざける感じになってきますけど。なんていうか、これみよがしでもない形で、普通に地域に出たり、一緒にやったり、っていう形になっていくと、何かおこってもそれが、まあなんていうか当たり前というかね。 

町の中の安心感をつくる

多田:「まあ、しょうがねえなあ」という許し方をしてもらえるギリギリのラインを何とかみんなで渡ってきた。まあ、もちろん、これ以上やったら、絶対地域ではもたないという時は、僕らが無理やり、嫌がる人を強制入院させたこともありますしね。そうやって、地域とのバランスをギリギリのところを考えながらですけど、でもこう、「すみません」と言いながら、許してもらえるまちづくりをしてきたんかなと。僕らだけでなく、みんなでやってきたということかなと思います。

山下:もちろんすごく困ったことには対処をしないといけないんですけど、それが基本でなくて、それ以前にまあ「地域で暮らす人」だよねとやっていくと、やっぱり全然わからないわけではないので、そういうふうに自分でもやっていく。なにかそういうのをみていくと。お互いになんていうんでしょうね。お互いに障害者だからとかそういうことにならない付き合い方になっていくのかなという感じがしていて。

多田:あの、うちに幸ちゃんって呼んでる女の人がおるんですけどね。うちの前の公民館の駐車場に幼稚園のママたちが車をおいて、子どもの送り迎えをしていくんですけど。その若いママたちに幸ちゃんが「おはようございます」って言っても、みんなものをいわずに最初通っていたんです。幸ちゃんはそれが悲しかったんでしょうなあ、何かのときに地元の保健師さんに「挨拶してくれんのじゃ」と言うと。保健師さんが「よっしゃ、私がちょっと園長にかけあって、マインドさんの話を幼稚園に話す場をつくってやろう」となって、幼稚園に呼んでくれて、話をする場をつくってくれたんですよ。

そのときにうちから行った仲間の一人に塩ちゃんというとても気のいい男がいるんです。この塩ちゃんが、「小さいころからADHDで施設にも行ったり、なじめんかったり、仕事もしたけど、結局、統合失調症も発病して精神病院へも行ったけど、今はマインドで仲間と一緒に暮らしてて、今はここで働いています。ビアホールのスタッフやって、生きてます」って話したんです。そのとき、「自分を生み育ててくれたお母ちゃんに対して、今どう思っていますか?」ということを聞かれた彼は「こんな僕でも産んでくれて、感謝しています」って答えたんです。実際、彼はお母さんを支えているんですが。そんな話をしたら、若いお母ちゃんたちがみんなポロポロ泣いているわけなんです。「うちの子も発達障害じゃないのかな」と、みんな不安を持ちながら子育てしている、緊張の中にいるママがもうみんな泣いているわけ。

それから1週間後くらいに、そのママの一人がマインドを訪ねてくれて、「多田さん、マインドのみなさんにすごく救われたんです。だからマインドのみなさんと一緒に親子クラブをやりたい」と話を持ってきてくれるんです。それから僕らは、「マインド親子クラブ」というのを一緒に作って、年に4~5回、若いママたちと一緒にお弁当作って公園行って、みんなで遊んだりをずっと続けていくんですけど。

何かこう、地域の中で隠していたり、実は言えなかったりするようなことを、僕らは、そのまま、こう、独りごと言いながら歩いていたり、「変」な恰好して寝転がっていたりするけど、「それでもええやん」、みたいな感覚がまちの中の安心感みたいなものに、少しずつつながっているような実感がありましたから。それからまちの人たちが、「おはようございますー」って若いママたちが通っていくわけやないですか、ママたちが変わってくる。まちの人たちも、今までものを言ってもらえなかったご婦人方が野菜を持ってきてくれたり、だんだんオセロゲームのように人の心が変わってくるわけやないですか。「これが大切なんやな」ということを、すごく、地域に出て、これをやりだして思わしてもらったというか。 

山下:そうですね、なんかこう、やっぱりそうだったのかという感じが今すごくするんですが。本当はみんな今のままでいいとと思っていない、例えば何か家族の中、社会の中に支障があったりするときに、隠したりとか、とじこめたりとか、こうだって決めつけたりとか、そのままがいいとか、心地よいと思っているわけじゃないんだけど。なんだかそういうことをやりあっていて、そのことが余計に自分やまわりを苦しくさせていて、でもどうしたらいいかわからなくて、そんなときにね。

多田:目の前で「変」なのがやっているとね、まあ何か、「いいのかな」って思えたりするときがあってもいいのかなって。

今、そこにあるということ

山下:たぶん そういうことなのかなって気がするんですよね。本当はそうやって、それが障害であれ、今だったら認知症であれ、居場所のない少年たちであれ、いるんですよね。僕もずっと気にかかってきたのがオリンピックや国際会議だったりがあるたびに、公園で生活している人たちが一掃されてしまったりとか。彼らは別にあるタイミングから、どこかに生活できる場ができたわけではない。単純に見えない場所に持って行かれるだけ、何も問題は解決していないわけで。だから色々な難しい事件が起こるというわけではないけど、でもどうも底辺にはそういうことがあるような気がして。だけど、おっしゃられたように、ある意味でひっくり返してしまえば、そうやって「隠す」とか「籠る」でなく、それを「いいじゃないか、色々なことあるよね」って、ただお互いに危害を加えたり、あまりにも脅威になったりとか、そこだけは、際で、そういうことに関わる人が何とか一生懸命やらないといけない部分はあって、そういう存在が理屈だけでもだめで、本当は理屈も通ってほしいけど、「現にそこにある」ということが、「いいじゃないか、それでもいいんだ、自分もそれでもいいかもしれない、そうはしないけど」とか、何かやっぱり、そういうことが起こってくるってことにすごく意味があるという気がしてですね。

多田:それこそ 僕が父親であったり、まきび病院の一色先生を追いかけてたのは、あの人たちかっこよかったんですよ。理不尽な公権力に対して、「違う」と言いながら。部落解放運動もそうですが、精神医療の世界でも閉鎖病棟の鉄格子をはずす、鍵を開ける、やはり精神病院の開放(解放)運動があったときに、色々な人たちが立ち上がって、いっとき変えようとするけど、結局みんな辞めていく、諦めていく。一色先生は24時間365日、精神病院の鍵を開け続ける実践をやり続ける。やり続けることって、すごいと思うんです。何か後で気が付くんですけど。

だからその理論的なものとか、理念とか、そういったものって、いっときは、そこがかっこよく見えますけど、それを続けていく努力は、すごく日常的なものを積み重ねていく営みで、それが大切だという事をまきび病院に行って初めて教わるんです。それが地域の中で何もできていないから、つくっていくしかないっていうか、それは「土着する」っていうことだと思ったんです。やはりそこで暮らすってことですから、結局、あの、そこからつくっていくという風に変えないと、結局、時代が変わり、管理が行き届き、その中で先輩方のほとんどがみんな辞めていく。負けていくやないですか、全滅していくんですよ。でも、そこで終わっちゃいけんやないですか。

山下:そうですよね 僕もずっと思っていたのだが、あのときやろうとしたことは、少なくとも間違いでなかったと思うんですけど、いっこいっこのことはともかくとしても、ただ「だめだった」「あきらめてしまった」とみたいなものがちょっと残されている気があるして。思想とか、そういうことがなるならないは別として そういうことが 本当にやりたいこととか いい状態と思うのであれば、全然かたちは変わっていったとしても、まあ本当にそこいらへんで商売やってても全然かまわないし、ある意味それが 生き方としてそれをどうやって継続していくかというのが、ある意味それが本当の戦いだと思うんですけど。どうも、それがそんな感じを持っていて。

多田:うん、あの、僕にはあんな風にかっこよくはできないし、自分自身も情けないわけですけど、まあ、じゃあ僕にできることは何なのかなと思ったときに、それしかなかったんですよ。彼らと一緒に隠さずに、どうやって生きるか、まちのなかで。この選択肢しか僕にはなかったんですかね、だから病院の中にはおれませんでした。外に出るしかなかった。

山下:病院もだんだん前のようではなくなっていった。

多田:そうですね まきび病院自体も段々、法律や色々なものが厳しくなって、管理的にせざるをえないような状況の中で、すごく息苦しくなってくるんですね。やりたくないことをしなきゃいけなくて、みんなが踏ん張ってますね。僕はあの病院があることは、とても意義があることだと思ってるんですけど。でもあそこが持ってる宝物をあのまま埋没させちゃいけないんじゃないか、まきび病院が持っている宝物は地域にお返しせんといけん。そう思ってますね。

被災から新しいまちづくり 

山下:これまでのマインドが、あるいは、多田さんが真備でされてきた積み重ねの上で、この被災後の今というのは、どういうふうに、感じておられますかね? 

多田:どうなんだろう、あの、まだよう分からんのです。でも、こうありたいみたいなものはあって、やはり、あれだけまちが色々な意味で傷つきましたから。その、僕らは岡山マインドのことしか分からんので、マインドのところからみると、すごく何ていうのかな、僕たちは仲間と一緒に何とか逃げれて、命を亡くさずにすみました。みんなでまきび病院に避難入院させていただいて、あの悲惨な避難所へも行かずにすみました。これって、あの状況の中ではすごく恵まれてるんですね。マインドのみなさんたちは、水に浸かって、家財道具が全部泥水に浸かって廃棄された。自分の大切なものも失くすんですけど、それは6畳一間なんですよ。グループホームの一間。彼らが失ったものは、元からたくさんではないんです。家族とか家とか財産とか、いろんな可能性とか希望とか、色々なものが、そういう意味で、元からそんなにない中で泥水に浸かった。たくさん持っている人は、失ったものも大きいから、喪失感も大きいと思うんですけど。底を打った経験のある彼らが失ったモノは、元からそれほど持ちえなかったわけで、ショックの受け方が違うように思えるんです。逆に言うたら義援金100万円以上ももろうて、あんな大金を見たこともない、手に取ったこともない。これで、少しだけニコニコできるわけで、そういう世界が片一方であったりね。

グランドピアノがあるような家の方が鬱になって動けなくなったみたいなことが片一方で起こっている、高齢のご主人が寝たきりで逃げられなかったから、そのまま水に飲まれて、自分だけは天井裏をやぶって顔を出して、あと少しのところで助かったけど、ご主人は浮いてたという経験をした女性の方とか。ひとり一人、千差万別な苦労を抱えている中で、障害を持っている親子や要支援の高齢者の人たちの多くが、51名が命を落とされるんですが。その、もちろん避難所とかも含めて、僕たちは全く何も備えができてなくて、障害者や要援護者の方々は災害弱者としていつものようにはじかれ、置いてきぼりにされるんですけど、すごい苦しい思いをして転々とさせられていくんですけど。

うまく言えないんですが、あの、災害時ではそれもあまた多くの苦労の中の一つなんだと思えるというか。だからその、何て言うのかな、いかに平時が大切かみたいなことが浮き出るんですけど、その、そういう格差も含めてかもしれませんけど、障害者とか災害弱者とかが置いてきぼりになるんですけど、とりたてて言えないような、マインドはそういう苦労ができたっていうか、お金とか資産とか色々なものが人の幸せには関係してくると思いますけど、果たしてどっちが幸せかみたいなことが。何を言ってるのか分からなくなりました。

山下:それは、幸せを何で感じるかとかそういうことでしょうかね。

多田: それもあると思いますけど その、何て言うんだろう、僕らはそういう意味で今回思ったのは、マインドの当事者のみなさんはあの悲惨な避難所に行かずにすんで、まきび病院に逃げられました。決して居たくはない精神病院だけど、三食付いて、布団もついて、給水車で、水だけは毎日補給しながら、ライフラインを保てたところで3週間逃げられたんですよね。過酷な避難所にもし行っていたら、多分そこではじき飛ばされていたかも、いろんなところへバラバラにされてもっとひどい目にあったかも。そういう人がたくさんおられるんですけど、僕らはその経験をしていない。だから、さっきみたいな話を感じられる部分があったりもするんですけど。まあ、何か、僕の中で、色々なものがぐちゃぐちゃなままみたいな気がするんですけど。何の話をしよったんじゃっけ  

山下:(笑)そうなんですよね。結局、ひとくくりに語れなくて、ちょっとしばらく前にテレビを見てて、そんな世界もあるよなと思ったのがタイかどこかだと思うんですけど、かなりの水害で水に浸かって、かなりのところまで水につかりながら、道端でおばちゃんが商売しているんですよね。まあ、ふだんから浸かる地域で実際2日とは生きているわけだし。これも生活ですよね。という世界もあったり まあたくましいなと思ったんですけど。あの、なんていうんですかね。だから災害が起こって、身内の方をなくしたり、大事なものをなくしたり、今までの生活がぐちゃぐちゃになって、悲しんだり それもやっぱりあるし、でもそれが全てかっていうとそうでない感じ方っていうか、これはもうだから何がいいとか悪いとかではないのかな。

多田:そのへんはぐちゃぐちゃですね。自分でもよく分からないようなことがたくさんありますから。知らないことがいっぱいあると思います。

山下:今度はぐちゃぐちゃのところから、これからということを考えたときに、地域のなかでのマインドってことであったり、真備ってことであったりとか どういう思いでいらっしゃいますか ?

多田:前からやってきたことを続けていきたいと、やっぱり思うんです。だからまちの人たちに帰ってきてほしいという思いが強くて。あれだけ、まあ声かけてくれてた、名前で呼んでくれていた人たちが、みなおらんようになってるわけですから。これはやっぱり僕らさびしかったですから。帰ってきてくださって、もう一回少しでも帰って来てくださって、まあすごいわがままを言えば、新しいまちづくりを一緒にして下さいっていうような、不謹慎な言い方かもしれませんけどチャンスというか、そんなことも考えながら、なんか毎日わけ分からんようになっているのが今かもしれませんね。

山下:「お互いさまの復興」というのをおっしゃられていますけど、マインドがどうというより、マインドがある真備だったりとか、他の方との関わりの中で成り立ってきたり、それがつくられた、それを被災の状況の中から、そういうことを取り戻そうっていう感じでしょうかね

多田:はい、「お互いさま復興」って言ってるのは、僕たちは「小さき者」って言うんですが、声の小さな者たちがキチンとモノが言えて、参加できるような復興を目指したいんですね。お互いさまって、別の言い方をすれば「お前らがおってくれてエカッタ」って、そう言ってもらえるような、その、在り方というか、役割りづくりというか、そんなね。それこそ、隠さないっていうことにつながるような、そんなものですかね。

でも、僕はもっと多分、わがままなことを思っていると思うんですけど、それをこう作っていく作り方は今までみんなと一緒にやってきたやり方を、逆にいうたら もう少し、僕なんかがおらんで、若い人たちやそういうマインドの当事者の人たちが、自分たちで感じたものを作っていってほしいみたいなところがあって。僕いつ死ぬか分かりませんし、これはね、なんか僕はこれを世代交代のきっかけにしたいなと思っているところもあって、彼らに託したいなという思いがありますね。それくらい、こう、マインドの当事者のみなさんは、本当に前へ出て自分でやられますからね。もう僕がおらんでも彼らはいろんな講演会でも、自分らでこなしていけるくらいやられるんですよ。そんなに出しゃばらんようにしなきゃと思いながら今もおりますけど。

山下:今回のことで、それぞれにやっぱり色々やらないと色々なことが動いていかなかったりとか色んなことがでてきたっていうのは、芽がふいてくる。ある意味チャンスみたいなところはありますかね。

多田:そう思いたいし、信じたいですね。そうなってほしいなというのはあるし、ぼくも多分それに向けてずっとやり続けるとは思うんですけど。

山下:例えば、そういう言いだしっぺみたいな若い人がいっぱいでてきたときには、今度は多田さんは、世代交代した後は、そのときの姿はどうなんですかね?

多田:理想は自分の好きなことだけやらしてくれて、「あとは頼むよ」っていう形で、彼らに任せられるようになったらいいですね。あの、僕はわがままですから、ずっとわがまま言いよる気がするんですけど。でもどこかでやっぱりこう自分の価値観とかをずっと、やっぱり今までは全部おしつけて、「やるぞ」って木に登ってやってきたところがたくさんあるので、これをもう少しみなさんにお返ししていかないといけんというのは、どっかでできるかどうか自信ないですけど。

山下:今までは、じゃあ、そうやってこう、ある意味無理をしてっていうわけではないですけど、全体として、もっとこうせねばとやってきたところがあるとすれば、そこは少し手を抜いて、もっと偏っていうか、多田さんとしてしたいことに向かっていく、いきたい、そういう状況になったら?

多田:まあ、分かんないですね。でも、決めていくのを、若い人たちがやっぱり決めってってくれたら嬉しいなと思いますね。そういう、まあ、どういうんかな。期待でしょうかね、やっぱりね。そうあってほしいなと思いますね。

(後編へつづく)

 

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